青少年健全育成作文で思ったこと (2002.1)

 ちょっと前になるが、13年の12月8日(土)、砧区民会館で開催された「世田谷区青少年育成のつどい」で、青少年健全育成作文の入賞者表彰と併せて、金賞に入賞した作文のうち4人の朗読があった。この「健全育成作文」とはどういう造語なのか、健全育成「するための」作文?健全育成「された子の」作文?健全育成「とは何かの」作文?なのかと、あまりスッキリない気持ちで聞いていた。
 2番目に出てきた小3の男の子の作文は、車山へ登ったことを淡々と綴っていて、朗読も素直で聞きやすかった。内容は、ニッコウキスゲとの出会いを中心においたもので、多少手を入れられた様子はあったが、2カ所、私の心に残った短い文章があった。主題とははずれるからか、踏み込んだ解説的な文章はなかったのだが、小学校3年生ならではの表現があった。本当は、この子の心には、この2カ所の想い出が強く残っていたのではないかと、勝手に想像した。
 ひとつは、リフトを降りて山頂へ急な坂道を歩いて登るところである。
「ぼくは歩くのがたいへんだったけどわざと急な所などを歩きました。」
 この子は、大人に負けないよう、遅れないよう一生懸命大股に歩いていた。しかし、その反面、大人から危ないぞと注意されるような場所を選んで歩く衝動に駆られて、少し大人になった気分と、何か征服した気分で心を満たされながら、たぶん黙々と喜々として歩いていたのではないか。大人との関係、自然との関係に一歩踏み出したように感じられた。
 もうひとつは、山頂の手前の開けたところだと思うが、チョット休んで、登ってきた下の方を眺めたのだろう。
「八ヶ岳の山々もはっきり見えました。あと、雲のかげなどが、見えました。」
 雄大な自然に圧倒された後、雲の影が見えた。平地にいては、雲は頭上にある。影の形など見たことがない。それが眼下に小さく見える白樺湖や周辺に、くっきと雲の影を見ることができた。太陽と自分と、雲と影の位置関係に、気も遠くなる思いではなかったか。
 健全育成とは別に、このような感性を大事にしたい。