W 杯
観戦記

 ブラジルが優勝して幕を閉じたW杯。私は、運不運関係なく常にテレビ観戦者であった。トリミングされた画面では臨場感はあまりないが、大写しにされたり、リプレイで確認できたり、競技場とはまた違う楽しみ方ができた。私自身まだまだ興奮さめやらぬところだが、すばらしい戦いが展開された裏で、ちょっと気になったことを3つ書いてみた。(2002.7.1)
反則の多さ
 ユニフォームを引っ張る、手で押しのける、背面からの靴底を見せたタックル、審判を欺くシミュレーション。なんと反則が多かったことか。そしてテレビ画面にその行為が大写しにされても、解説陣は褒めこそしないが当たり前のようにいう。反則も戦術のうちという考え方には賛成できない。特に一次リーグに多かった。日本チームは最悪のワーストワン。もらったカードの数が少なかったということで、最後にフェアプレー賞3位とは笑いものである。
 私たち少年サッカーの指導者は、子どもたちに日頃から反則については厳しく戒めている。技術や体力の勝る者に反則で対抗する姿勢は、サッカーセンス、サッカー技術の向上に、弊害はあってもプラスにはならないからである。子どもたちに夢を与えたなどと言ってのける解説者は、この反則を見習う子どもたちが出てくることがまるで分かっていない。反則で身を固めた将来の日本サッカーが、世界の鼻つまみ者にならなければよいが。
審判への言い掛かり
 テレビの画面では、選手が中心で審判の居場所がつかめない。どこの場所で、どの時点で、誰に向かって笛を吹いたか分からない。また反則を認めてもプレーを続行させていることもある。私たち審判の経験者は流れからおおよその見当は付く。だが、解説陣は、自分の未経験を棚に上げ、切り取られた画面からは判断付かない正確なジャッジにまでクレームを付ける。それが、家庭で、飲み屋で増幅していく。確かに未熟な審判による明らかなミスジャッジはあったが…。少年サッカーでは、子どもたちに、どんな場合であっても審判へのクレームはしないよう指導している。今後はジャッジに対する無責任な解説が行われないよう、国際審判の経験者を必ず解説陣に加えてもらいたい。
 主審と副審は、常にプレーをしている選手を間において判断している。故意か故意でないかも大きな基準だし、前後の流れも見なければならない。本来走り込んでいなければならない場所に走り込めなかった審判のジャッジミスは、責められても仕方ないが、瞬間の判断は審判に委ねるしかない。
 しかし余談だが、不可解なジャッジの中で、テレビでも問題にされなかった場面を一コマ。それはPK戦で韓国が勝ったときのキーパーである。キックの前に3歩も早く飛び出してボールをとめたシーンだ。私が副審なら、旗を揚げやり直しを命じていただろう。
近代サッカーの落とし穴
 サッカーの醍醐味は、イマジネーション、アイデア溢れるプレーが見られることだ。今回のW杯でも、古豪、強豪といわれるチームにその神髄が見られ、最後まで楽しく観戦できた。だが、日韓のように近代サッカーと称して、技量で上回る相手を組織的につぶし、最後は精神力で体力勝負に持ち込むスタイルは、悲壮感ただようロボットのようで、胸が痛くなり楽しめない。まず一対一のレベルアップを基礎に、ゴール前でのアイデア溢れるダイナミックなプレーを見せてほしい。そして、選手も観戦者もともに楽しめるサッカーになってほしい。子どもたちにも自分で考えるサッカーを指導している者として、日本のサッカーの将来を手放しでは喜べない。